鑑草 中江藤樹

第二巻
守節と背夫の報い
第五話 強欲な夫と賢明な妻
(現代語訳:青山明史)



 陶の奉行の答子は大変欲深く、不正な政治を行っていました。いつも賄賂(わいろ)をとっていたので答子の家は日増しに金持ちになっていきました。答子の妻は賢明で心正しい人だったので、夫の心と行いが正しくないためにわざわいを招くことを憂い、何度も正しい政治を行うように言葉を尽くして進言しましたが、答子は聞き入れませんでした。
 ある時、答子は百輌の車をつらねて派手な様子で故郷へ帰りました。答子を迎えた一族は皆、その様を素晴らしいとほめたたえ、喜んでいました。しかし答子の妻だけは幼い子を抱きながら、なぜか泣いて嘆いていました。姑は怒って、これほどめでたい時にそんなに泣くとは縁起がわるいと叱りました。すると妻はこう言いました。
「答子が陶で行っている政治は非道で、国は衰えていますし、民衆は不満を持っているので、やがてわざわいが起こることは避けられそうもありません。常々夫を諌(いさ)めているのですが、聞いて下さらないのです。ますます悪事ばかり考えては、ただ金銀財宝を集めることに血眼になり、後々の報いのことなど全く考えていません。このままでは近いうちに一家全員罰せられて、子孫を残すこともできなくなると思いつめ、このように泣いているのでございます。」
 そして妻は姑に、子孫を残すためにこの子を連れてどこかへ隠れ住むので、どうか自分を離縁してほしいと泣きながら訴えました。これを聞いた姑はますます怒り、答子にこんな嫁とは離縁するように命じました。そこで妻は子を連れて実家に帰ったのでした。
 一年後、ついに答子の悪事が全て明るみに出て、一族全員が処刑されてしまいました。しかし姑だけは高齢だったので、ただ一人だけ許されました。答子の妻はこれを聞くと、子を連れて姑のところへ行き、以前よりもずっと孝行の誠を尽くして、亡き夫のために三年間喪に服しました。そして一人息子をしっかりと育て上げたので、かろうじて答子の家は存続することができました。
 
(評釈 中江藤樹)
 答子がもし妻の忠告を聞き入れていたら、夫婦一緒に栄えていたでしょうに、実に痛ましく哀れなことです。答子は妻の意見を受け入れなかったために、自分が処刑されるだけでなく、一族全員が死んでしまいました。しかしその妻の守節の功によって一人息子は難を逃れ、家を継がせることができました。その上、答子の老母の孝養まで精一杯行ったというのですから、こんな立派な嫁はめったにいません。もし妻に守節の徳がなければ、妻も息子と一緒に処刑されて家は断絶し、老母も頼る者がなく悲惨なことになっていたはずです。
 そもそも守節とは、夫の死後に貞操を守ることだけではありません。常日頃から夫に過ちがあれば諌めて、善行があれば励ますというのが日常においての守節なのです。一般的に女性は家の中にいて、外に出て仕事をすることがないので、自分の夫に善行を勧めるというのが大切な役割なのです。古代の聖人の教えでは、「夫が三つの善行を行ったならば、妻にもその一つ分のよい報いがある。もし妻が夫に勧めて善行をさせたならば、妻も夫と同じ分のよい報いがある。」ということです。善行の報いがこのようであるなら、夫の悪行の報いも同様に逃れることはできないものです。この事をよくわきまえて、常日頃から守節につとめてください。



[ メモ ]
 この例からもわかるように、中江藤樹は「妻は夫に無条件に絶対服従すべきだ」とは考えていないのです。天の道に外れたことをしていたら、相手が誰であっても反省を促し、それでも聞き入れられなかったら非常手段をとることもやむを得ない、という立場です。これは陽明学の思想です。反対に「主人の善悪に関わらず絶対服従すべき」というのは朱子学の思想です。これは支配者に都合がいい思想なので、江戸幕府は公式の学問として朱子学を普及させました。陽明学派は幕府から監視、弾圧されていました。しかし結局、陽明学派の影響力は倒幕運動、明治維新へとつながっていったのです。

【陶】
 現在の中国山東省の地名。



公開日 2010.12.15

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