鑑草 中江藤樹

第二巻
守節と背夫の報い
第二話 亡き夫を手本として子供を立派に育てた母

(現代語訳:青山明史)


 張氏の妻、計夫人は心も行いも正しく、聖人の教えを大事にして固く守っていました。計夫人がまだ二十五歳の時に夫の張氏が亡くなりました。実家の父と母は再婚させようとしましたが、計夫人は守節の誓いを立てて固くこれを守り、まったく聞き入れませんでした。
 亡き夫への節をしっかりと守り、息子の張俊を大切に育てました。張俊が言葉を話せるようになるとすぐに父親が書いた文章を読み聞かせては復誦させました。そして物心がつく頃になったら、いつも父親の言行を語り聞かせました。このように教育を怠る時はなかったので、張俊は幼い時から行儀正しく素直でした。
 やがて張俊が成人して学問を始めた時、計夫人は戒めの言葉を書いて、それを張俊に授けてこう言いました。
「この家は今は没落してしまったけれども、お前一人を頼みとして再び繁栄させたいと願っています。これをよく心得て、お前の父の徳行を手本としなさい。また、私の与えた戒めを忘れないでください。決して学問に油断があってはなりません。」
 このような母の言葉に励まされ、張俊は学問を怠ることがなく非常に熱心だったので、優秀さを認められて、高官の位につきました。しか張俊が出世した後でも、母は張俊が少しでも間違ったことをした時には厳しく戒めるのでした。
 当時の宰相の秦檜(しんかい)という人は、とてもずるがしこく陰険な人で、君子を無実の罪で処刑し、天下にわざわいを起こし、国を危うくしていました。張俊はこれを嘆かわしく思い、秦檜の悪行を国王へお知らせしなければと思いました。しかし秦檜の権力が強いので、おそらく自分が罰を受けることになると思われました。そうなれば母が悲しむだろうと張俊は思い悩みました。毎日その事ばかり考えているうちに次第にやつれてきた張俊を見て、母はどうしたのかと尋ねました。張俊がありのままに事情を話すと、母は何も言わずに、亡き父が若い頃に試験のために書いた論文を持ってきました。そして、その中の、
「私はあえて言うべきことを言って首をはねられようとも、言わずして国王陛下にそむくことには耐えられない」という一文を示しました。
 張俊は母も自分と同じ考えなのだとわかりました。そこでもう思い残すことはないと、張俊は秦檜のした事をくわしく書き記して国王へお届けしました。しかしやはり心配していた通り、秦檜の勢力によって、張俊の方が封州へと左遷されることになりました。張俊を見送る時に母は言いました。
「忠節のために罰を受けるというのは立派なことですから、何も恥じることはありません。気にしないで安らかな気持ちで行ってきなさい。」
 やがて秦檜が死んだ時、その悪行が明らかになりました。ついに張俊が正しかったことがわかり、再び都へ呼び戻されて、宰相の地位につきました。張俊の息子の張南軒は立派な学者になり、伯爵の称号を与えられました。そして計夫人が亡くなった時には、その名誉を称えて秦国大夫人という諡(おくりな)を賜わりました。これは日本でいえば大名の夫人に相当するほどの諡です。


(評釈 中江藤樹)
 節を守るのは、夫を愛して尊敬する心が本当だからです。夫を大切にすることの根幹は、夫の子をよく教育して家を栄えさせることにあります。計夫人はこの理をよくわかって、張俊にしっかりと人の道を教えることによって守節の大義を明らかにしたので、その子は宰相になり、孫は大学者になって伯爵の称号を与えられ、自分自身も秦国大夫人の諡を賜わるというこの上ない幸福をつくりだしました。
 節を守るということはとても立派な行いですが、我が子に人としての正しい道を教えなければ最善の行いではありません。そうしなければその報いも小さいのです。計夫人のように守節の大義を行うことは最高の善行なので、その報いはとても大きいのです。節を守ろうとする人は、この事をよく理解して大義をしっかりと行ってください。


[ メモ ]

 【君子を無実の罪で処刑】
 君子とは岳飛をさすようです。
 なお、Wikipediaの秦檜の項目には、「張俊は秦檜派の軍人」という記述があり、この訓話は史実とは異なるのかもしれません。


 【諡】
 おくりなとは貴人の死後に贈られる名前のことです。

 


公開日 2010.12.8

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