鑑草 中江藤樹

第二巻
守節と背夫の報い
第一話 死別した夫に節を守り通した妻


(現代語訳:青山明史)


 太守(たいしゅ:郡の長官)である湛(たん)の娘の房氏は幼い頃からとても清らかな心を持っていました。そして十六歳の時に魏普(ぎふ)の妻になりました。魏普の家はひどく貧しかったのですが、房氏は実家が裕福だったことを忘れたかのように、姑に孝行をつくし、夫によく節を守りました。何年かたって、房氏は男の子を産みました。しかし出産からしばらく後に夫の魏普は重い病気にかかりました。夫はもう自分の命は長くないと感じて、妻の房氏に言いました。
「人の生死は天の決めることなので、今死んでいくことには少しも悔いはない。ただ残念なのは、お前はまだ若いから再婚することになるだろう。そうなったら我が家の年老いた母と幼い子どもの面倒はいったい誰が見るのだろうか。そのことだけが気がかりで死ぬに死ねない思いだ。」
 夫の訴えを聞いた妻の房氏は、泣きながら答えました。
「私は父上と母上のご命令によって、あなたお会いすることができ、夫婦として一生暮らそうと契りを交わしたのです。今あなたがこんなにも早く死んでしまうとしたら、それは私自身の不幸でございます。たとえ私だけ残されたとしても、他の人と再婚することなど決してありません。ましてあなたの母上様と幼い子がいるのですから、自分がまだ若いからといって、これを見捨てて自分だけの幸福を求めることは犬畜生にも劣る行いでございます。」
 その後、魏普の病気は次第に悪化して、ついに死んでしまいました。房氏は激しく泣き悲しみました。そして夫の亡骸を棺桶に納める時、自分の左の耳を切り取って、棺桶の中に入れると、「これはあなたとの夫婦の誓いを守って、来世でもう一度あなたにお会いするまでの形見でございます。」と言って、声をあげて泣きました。姑はこれを見て大いに驚き、どうして耳を切ったのかと房氏に問いました。房氏は答えました。
「私がまだ若いので父と母が再婚をさせようとして、私の守節の志を無にしてしまうかもしれません。だからこうして私の決意をあらわし、自分自身に守節の誓いをたてたのでございます。」
 房氏は夫の葬礼を丁重に行った後、喪に服しながら、姑にますます孝行をつくし、子を大事に育てました。そして一生、音楽も聴かず、酒宴の席へつくこともなく、いつも家の中にいました。
 子の名は修(しゅう)といいました。修が十二歳になった時、房氏の実の父母はまだ元気だったので、子の顔を見せようと里帰りしました。
 すると房氏の父と母は、この機会に房氏を再婚させようと考えて、房氏のいない所で家族を集めて房氏を家に帰さないための相談をしました。それを子の修がたまたま聞いていました。すぐに母の房氏に知らせたので、房氏はそのまま家に帰ってしまいました。
 房氏はその後も死ぬまで節を守り、姑によく仕えました。子を育てるのも道徳に則っていたので、修はとても優秀で人の手本となるような立派な人になりました。その評判を聞いた国王は、修を済陰郡の太守に任命し、その家は大いに栄えました。


(評釈 中江藤樹)
 寡婦の手で育てられた子は、大体において父親よりも出来が悪いものです。ところが魏普の子の修は後家に育てられながらも立派な大人になり、名声が高く、貧しくて家柄もよくなかったのに太守の位についたのは、世にも珍しい幸いです。これはひとえに房氏の徳行が世にも珍しいほどであったからです。
 慈悲清浄の心を儒教では仁徳と名づけ、仏教では仏性といいます。房氏が夫を愛してその死後も節を守り、姑に孝行を尽くし、その子を愛するのにも正しい道理があるのは、全て慈悲心が明らかだからです。痛みもかえりみずに自分の意思で耳を切り取り、一生娯楽と縁のない生活を送り、心と力を尽くすことは全て夫のためであり、我欲の汚れは露ほどもないという房氏の心こそ、人に本来備わっている慈悲清浄の心です。この仁徳または仏性とも呼ばれる心は百福の根本ですから、房氏の子が立派に育って高い位につくという幸いを作り出したのです。現世での報いがこのようなのですから、死後の幸福も同様なのでしょう。

 


 


公開日 2010.12.7

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