鑑草 中江藤樹

第一巻
孝行と不孝の報い


(現代語訳:青山明史)


 孝行とは父母の言うことをよく聞き、親の助けとなることをすることです。不孝とはその逆をすることです。
 天は親孝行な人には幸福を与え、親不孝な人には天罰をくだします。これが報いということです。
 女は嫁に行ったら夫の家が我が家になります。そして夫婦とは二人で一体のものですから、夫の両親を自分の父母として、自分の生みの親を大切にする心と同じくして仕えることが婦人の孝行です。
 この孝行をよく行う人には、天の助けや恵みがあるので、人からも愛されるのです。それだけではなく、孝行者は百福の集まるところなので、子孫までも大いに栄えます。
 親不孝者は天が憎むので、人からも馬鹿にされ、軽く見られます。その上に親不孝は多くの災いを招いて、子孫も繁栄しないのです。
 また、孝行は仙人や仏となるための修行であり、不孝は地獄に落ちる原因になります。その上、人間は生まれつき明徳仏性を本性としています。この本性は全ての人の根本ですから、「本心」とも呼ぶことにします。この明徳仏性は全ての人を愛するものなので、本来、姑は必ず嫁を可愛がり、嫁は必ず姑に孝行するのが当然です。だから、誰でも親孝行と言われると喜び、親不孝となじられると怒ります。どんなに親不孝な人でも、人前では孝行者のふりをするものです。
 人の本性はそのようなものですが、姑は息子を思うあまりに心が迷ってしまい、また嫁は自分を愛するあまりに本心を忘れ、姑と嫁の間に見るにたえないような争いが起こります。
 そもそも嫁とは愛する息子の妻なのですから、姑の本心は嫁を愛するに決まっています。後になって憎み嫌うような気持ちが最初からあるなら、嫁に迎えるはずがありません。結婚当初は憎む心は少しもないのですが、わが息子を愛するあまり、嫁の容儀才徳が優れていることを姑は願っています。容儀とは立ち居ふるまいのことで、才は家事全般の能力、徳は心優しく行儀正しいことです。容儀才徳が全てそなわった女性はめったにいませんから、嫁の欠点を責める心がだんだんと激しくなって、嫁を可愛がる本心を忘れ、日に日に嫁に厳しくなり、陰口を言うまでになってしまいます。
 また、嫁も本来、結婚する時には、姑に逆らい、不孝をするという気持ちは全くないでしょう。ただ姑にも夫にもよく思われたい一心です。このように孝行したいと思うのが嫁の本心です。しかし普通の人は、他人は必ず自分を憎むものと思いがちな心を持っています。この心を「物我の隔心」といいます。この物我の隔心を持って姑を見れば、姑もまた他人なので、きっと自分のことは大事に思っていないだろうと考えてしまいます。そして姑の厳しい態度に接して、やはりそうだと不安になっているところへ、姑が陰口を言っていたことなどを女中などから告げ口されれば、胸がさわぎ反発を覚えます。このような心で姑に仕えているので、嫁の態度もついとげとげしくなります。そうなれば、姑の憎しみもますます深くなるので、さらに嫁の態度もきつくなって、ついに不孝の嫁になってしまうのです。
 この道理をよく理解して、姑の本心は嫁を愛しく思うものなのですから、自他を区別する心を忘れて姑に孝行をつくしましょう。もし姑がひどい仕打ちをしてきた時は、これは姑の本心ではなく、自分によくないところがあるために、姑の感情が乱れたのだと反省しましょう。そんな時は自分のあやまちを改め、ますます孝行をつくし、姑を恨むようなことがあってはなりません。万一恨む気持ちが起きたら、不孝は天に見捨てられ、人に憎まれ、災いを招き、子孫を滅ばす邪心であることを思い出して、人の本性である明徳仏性を明らかにしましょう。このようによく考えて、常に自己の明徳を明らかにして、孝行する真心があれば、姑も必ず心の曇りが晴れて、本来の慈愛の心がわき起こり、家庭内は仲良くなり、めでたく子孫繁栄するでしょう。


[ メモ ]

 【孝行は仙人や仏となるための修行】
 孝行は儒教で非常に重視されるもので、儒教で言えば「聖人となるための修行」となるところですが、ここでは道教の仙人、仏教の仏と書かれています。特に深い意味はなく一般人向けの読み物として書かれたからだと思います。

 【物我の隔心】
 私はこの言葉は初めて知りましたが、「他人は必ず自分を憎むものと思いがちな心」と説明されています。出典は不明ですが、ある脳科学の本を読んでいたところ、物我の隔心にあたる内容があったので、簡単に紹介します。
 人間は他の動物よりずっと脳が発達しています。食欲・性欲などの本能は脳の古くからある部分が司るので、人間と動物に共通です。人間に特に発達した新皮質(大脳の外側の部分)の前頭葉という部位があります。この前頭葉は人間特有の高等な精神を作り出しましたが、この働きにより、創造欲・所有欲・自己顕示欲などを人間は持つようになりました。この自己顕示欲が人間に過剰なまでの競争心を起こさせて、自分以外の人を否定しようとする心を生みました。これが「物我の隔心」に相当します。そしてそれが行き過ぎると人が人を殺すことさえあるのです。他の動物では、決して同類同士で殺し合うことはありません。それを抑止するブレーキのような機能が脳に生まれつき備わっています。しかし人間はそのブレーキがなくなっているので、意識的に他者を尊重しようという心を起こさなければならないのです。

 




公開日 2010.11.8

鑑草のトップページへ

HOME