鑑草 中江藤樹

第六巻
淑睦の報い
序文

(現代語訳:青山明史)


 淑睦(しゅくぼく)とは仲良くすることです。相嫁(あいよめ:夫の兄弟の嫁)や小姑(こじゅうとめ:夫の姉妹)やその他一族を心から愛することです。
 心の本体には万物一体の仁愛が備わっています。万物一体の仁愛とは、全ての物は本来一つの物なので、他人のことも我が身のように愛するということです。だから、心の迷いがなければ、親しくない人でも愛することができるのが道理です。まして、相嫁や小姑ともなれば、血のつながった家族同様に親しみがあるはずです。万物一体の仁愛を明らかにして、人の態度がどうであろうと、自分は何の悪意もなく、ひたすらに親しみを持って仲良くすれば、相手の人もまた木石ではないので、心を動かされて、仁愛をもって親しくしてくるものです。そうやっていれば、相嫁、小姑、その他の一族に至るまで、みな血のつながりがあるように親密になって、お互いを思いやるので、家の中で一緒にいる時は兄弟のように仲良くする楽しみがあり、家の中で別々にいる時は、あれこれ気兼ねする必要もなく落ち着いていられます。まずこれが淑睦の直接の福報です。そしてこのように淑睦に努めていれば、一族みな仲良くなって、やがて子孫の幸福を招きます。これが後から来る福報です。
 そうはいっても、世間に淑睦の人が少ないのは、実の兄弟なら血のつながりがあるので、互いに意念はありませんが、相嫁、小姑は血のつながりがないので、他人だから心を許すことができないという意念が胸のつかえとなります。その上、互いに能力や容姿を競い、自分が得をしたいという利己心があるために、万物一体の仁愛が覆われてしまいます。そうして互いにそねみ、争う心根をもち、うわべでは親しくしているふりをしますが、「真綿に針を包む」ということわざのようになります。このような心が原因となって色々と見苦しい行いをするようになり、ひどい時は、仇(かたき)のように争い傷つけあって、お互いに限りない苦しみを受けるだけでなく、一族の恥をさらし、子孫のわざわいの原因にもなるのです。そもそも苦しみとわざわいは誰もがいやがり避けるものであり、楽しみと幸いは誰でも好み願うものですが、このような人々は自分の心で苦楽禍福を作り出している理を知らないのです。
 それほどひどくない、ある程度は淑睦の心を持った人でも、人の態度に腹を立てて、自分は悪くないのに、人からつれなくされるなどと迷いが生じて、万物一体の本心を失い、同じようなあさましい心行をすることがあります。よく禍福損益の理をわきまえて、淑睦の心行をはげみ、もし人の態度がひどい時には、自分が良い人だったら、人から悪くされることはないものですから、ただ自分の仁愛が足りないからだと自分を反省して、かりそめにも人を悪く思わず、何度でも相手をそのまま受け入れて、ただひたすらに淑睦につとめ、利己心の炎を消し、広い心を持って自分本位な気持ちを抑えれば、どんな悪い人であっても感動しない人はいないでしょう。たとえその人が感動しなかったとしても、まわりの人たちは良知が暗くないので、あなたの淑睦の行いをほめたたえ、相手の横暴さを憎み嫌うものです。人からよく思われることは、すなわち天道が味方してくださることです。天道も人もともに自分に味方してくれることは、誰もが願う事ですから、それを思って心をなぐさめて、人のつれなさを忘れたら、淑睦の心行が日毎に進んで行くことでしょう。



[ メモ ]

 【真綿に針を包む】
 表面は優しくふるまっているがが、内心では悪意を持っていることのたとえ。( ことわざデータバンク

 




公開日 2011.5.11

鑑草のトップページへ

HOME