鑑草 中江藤樹

第五巻
仁と虐の報い
第二話 鶏の言葉

(現代語訳:青山明史)


 胡泰(こたい)の母は、気が荒く、家の使用人に対して厳しく、情けをかけることはありませんでした。その母が世を去って十年あまりがすぎて、胡泰の父は再婚しました。
 そしてある時、胡泰の夢の中に亡き母が現れて告げました。
「私は生きていた時、気が荒く使用人たちを苦しめた罪によって、今は鶏に生まれ変わりました。明日この家に来る軍人が雌鶏を持っているでしょう。それが私の今の姿です。」
 このように夢の中ではっきりと聞こえました。胡泰は不思議に思ったものの、それほど気にせず、翌朝は用事があったので外出しました。胡泰が出かけた後に、一人の軍人がやって来て、この家に宿をとることになりました。その軍人は一羽の雌鶏を持ってきていました。家の者がこの鶏を殺して料理しようとしたところ、その鶏は突然人の言葉を話し始めました。
「私を殺さないでください。胡泰が帰ってくるまで待ってください。」
 家の者たちは驚き、とまどって殺しかねているうちに、胡泰が帰ってきました。鶏は胡泰を見ると喜んで、亡き母が生きていた時のことを詳しく話しました。胡泰はこれを聞いて、夢の中のお告げを思い出して、涙を流しながら鶏を抱きしめました。そして父にも事情を話して、その鶏を大切に飼うことにしました。
 しばらくすると、この鶏は胡泰の父の後妻をねたむようになり、口汚くののしりながら、くちばしで後妻をつついてやめませんでした。後妻はそれがいやになって、胡泰が留守の間にその鶏を殺して捨ててしまいました。


(評釈 中江藤樹)
 仏教では、無明(むみょう)が輪廻(りんね:生まれ変わり)の原因だとしています。無明とは、心の迷いと自己への執着のことです。
 気が荒く無情なのは、この無明が深いということなので、胡泰の母は我欲の迷いの罪によって、畜生に生まれ変わったのです。そうなってもなお、人間だった時のねたみを忘れずに後妻を憎むありさまは、哀れで見苦しいものです。そして後妻は、このように明らかな因果応報の結果を見ていながら、この鶏を殺してしまいました。その心は一層深い無明ですから、死んだら必ず畜生に生まれ変わって、とても苦しむことになるでしょう。
 このように目の前で報いを見ていながら、自分を反省し、戒めることができないのですから、話を伝え聞くだけの人がこれを疑い、自分の心の迷いがわからないのも無理はないと言えるかもしれません。しかし、優れた先人がこの因果応報の理を明らかにし、その例は世の中に絶えないのですから、よく考え、自分を反省して、心の中にたまっていく畜生の種を消すことが、その人の幸福になるのです。
 今、世の中にいる動物の中にも、罪によって人が生まれ変わったものがきっと多くいるのでしょうが、人の言葉を話さないのでわからないのでしょう。実に哀れなことです。恐ろしいことです。


[ メモ ]

 【無明】
 原文では「無明は即ち邪見妄執のことなり」となっています。邪見を心の迷い、妄執を自己への執着と訳しました。

 



公開日 2011.4.11

鑑草のトップページへ

HOME