鑑草 中江藤樹

第五巻
仁と虐の報い
序文

(現代語訳:青山明史)


 家の中で働かせている使用人に対して、身分の低い召使いに至るまで、何事についても慈悲深く、情けをかけることを仁(じん)といいます。反対に、何事についても非情であり、ひどい扱いをすることを虐(ぎゃく)といいます。
 天地は万物の父母であり、人は万物の霊長ですから、人として人を愛する者を天道が助けてくださる事は、たとえば他人の子に優しくしてあげたら、その子の両親がその恩返しをするようなものです。人として人を害する者を、天道が罰してくださるのは、たとえば他人の子を傷つけたら、その両親が仕返しをするようなものですから、仁と虐の報いは、影が物の形と同じになるように必然の理なのです。
 人にはそれぞれ生まれ持っている福分の差によって身分の上下があり、主人となる人もいれば、召使いとなる人もいますが、つまるところは同じ人間です。主人も召使いがいなければ用を済ませることができません。ことわざにも「侍女のいない貴婦人はいない」と言います。召使いも主人がいなければ衣食住の全てに困ります。召使いは主人を頼り、主人は召使いに働いてもらい、お互いに助け合うから世の中を渡っていくことができるのです。その上、主人が情け深いので家来が忠節を尽くし、主人が非道なので使用人から恨まれるというような例は多いのです。このような事からいっても、使用人だからといって軽んじてつれなく接するべきではないのです。
 たとえ使用人が罪を犯しても、同情する心を持った上で戒め、罰してください。同情する心を持って罪をただすならば、相手も悔い改めるものです。同情する心を持たずに罪をただせば、その人は悔い改めることはありません。また、使用人のために恵みを施す事の大切さについては、当たり前のことですから詳しく説明するまでもないでしょう。
 ただ情け深くすることが使用人を使う上で第一なのです。ことわざにも「恩には命を捨てないが、情けには命も捨てる」と言います。もし何かの事で使用人に対して虐悪の思いが起きたら、この道理を思い出し、報いを恐れて、虐悪の思いを仁愛に変えてください。
 人は誰でも、わが子を愛するものです。召使いといっても、みな人の子です。もしわが子がその立場であったら、耐えられない思いがするでしょう。召使いの親もそれと同じ心があることをよく考えて、決して馬鹿にしたり、軽んじたりしないでください。万物が一体であると感じる心は人なら皆持っているものですから、召使いだから、他人だからと馬鹿にして、分け隔てする気持ちがなければ、誰でも優しくなれるはずです。よく自分を反省して、召使いにも仁愛を施すことが、我が身の幸福にもなるのです。



[ メモ ]

 【使用人、召使い】
 原文では、家の中でで使う身分の低い使用人のことを「奴婢雑人、奴、下人、下子、臣下」などと呼んでいます。藤樹がどのような意図で使い分けていたのかわかりませんが、大体同じものと思っていいでしょう。ここでは「奴」を「召使い」、「下人」を「使用人」、「臣下」を「家来」と訳しました。

 【人は万物の霊長】
 書経で人間のことを万物の中で最も優れている存在といっているのが由来です。

 【天道】
 大自然の神のことでしょう。

 【侍女のいない貴婦人はいない】
 原文では「下子(げす)なき上臈(じょうろう)はならず」ということわざですが、岩波書店のことわざ辞典にも載っておらず、訳すのに困ったので雰囲気でそれらしく訳しました。下子は下男、下女のことです。上臈は(1)位の高い僧(2)身分の高い人(3)貴婦人(4)遊女などの意味があります。直訳すると「召使いたちがいなければ、上流階級の人々の生活はなりたたない」ということです。

 【恩には命を捨てないが、情けには命も捨てる】
 原文では「恩には命を捨てざれども、なさけには命をすつる」です。

 




公開日 2011.4.11

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