鑑草 中江藤樹

第一巻
孝行と不孝の報い
第二話 三代の孝行な嫁

(現代語訳:青山明史)


 昔、麗水というところに林侑という男がいました。その妻は周氏といい、当時の女としては珍しく聖人の書をよく読み、儒教を信じて、まじめに生きていました。そんな人でしたから姑には誠心誠意をつくして孝行していました。周氏は男の子を一人産みましたが、その後に夫の林侑は母にも先だって亡くなりました。周氏はその後も夫が生きていた時以上に姑に精一杯つくしていました。
 やがて息子が成人して、嫁を迎えました。嫁の徐氏もまた周氏が姑に孝行するのと同様に、周氏に一心に仕えるのでした。徐氏は男の子を産み、その子は定庄と名付けられました。
 定庄がまだ一歳にもならないうちに、天下が乱れて戦乱の世になりました。そしてある夜、その家は盗賊に襲われました。徐氏の夫は定庄を沢(湿地)の中へ隠して、自分は盗賊を防ごうとして殺されてしまいました。その間に周氏と徐氏は山の奥へと逃れていましたが、やがて夫と息子の定庄を探して戻ってきたところを盗賊に見つかってしまいました。徐氏はまだ若く美しかったので、盗賊はさらっていこうとしました。周氏と徐氏は互いに手を握りしめて、泣きながら嘆きましたが、もう逃れようがありません。周氏は神に祈って助けを求めたところ、日頃の信仰が深かったためか、どこからともなく助けが現れて、盗賊たちを追い払ってくれました。
 無事に盗賊からのがれることはできましたが、周氏と徐氏は道に迷ってしまいました。そしてあたりをさまよっているうちに沢のほとりを通りがかり、沢の中にいる定庄を見つけました。一歳にもならない赤ん坊で、人里離れた野原の沢に置き去りにされたというのに、周氏と徐氏の孝行が天を動かし、神明の加護があったのか、定庄はけが一つ無く、母に抱かれているかのように穏やかな様子でした。周氏と徐氏は大喜びで子を抱いて帰りました。その後、夫の遺体も探し出して、丁重に葬式を行いました。
 やがて戦乱はおさまったものの、夫を亡くした徐氏と姑の徐氏はさびしい毎日になりましたが、徐氏はとても孝行だったので、お互いに慰めあって悩みを忘れました。この時、徐氏はまだ三十歳くらいで容姿も優れていたので、再婚話がいくつも持ち込まれましたが、徐氏はすべて断って、ひたすら周氏に孝行をつくしていました。
 定庄は幼い時から病気がちでしたが、周氏と徐氏がよくいたわって育てたので無事に成人しました。学問に励み、才徳がすぐれていたので、藩架という人が、林家が貧しいのもいとわずに、娘を定庄に嫁がせました。定庄の妻になった藩氏もまた、とても孝行者で、元の家の裕福な暮らしを忘れて、周氏と徐氏に仕える姿は類い稀でした。徐氏は老いてから病気になり、寝たきりになりましたが、藩氏は一日中そばにいて世話をしました。その様子は慈母が赤ん坊を育てるかのようでした。
 定庄はまもなく内裏に召し出され、秘書丞という高い位につきました。定庄の父母までもが官位をたまわり、子孫の多くも高位の役職につきました。これらはみな、周氏、徐氏、藩氏の三婦人の孝行が立派だったことの報いなのでしょう。

(評釈 中江藤樹)
 林侑は若くして亡くなり、その息子もまた盗賊に殺されてしまいました。このことからすると、林氏の一家はただ貧しいだけではなく、非常に不運であることは明らかです。こんな不運な家でしたが、周氏が真心をもって孝行したことが嫁の徐氏を孝行者にして、さらに孫嫁の藩氏も孝行者になりました。この三婦人の孝行のおかげで、周氏の息子夫婦は官位を与えられ、孫の定庄は高位の役職を得て、子も孫もめでたく栄えるという大きな幸福が訪れたのです。これはひとえに周氏の孝行が最初に土台としてあったからこそです。不運な家でさえ、このように禍を転じて福となしたのですから、まして元々幸運な家で孝行の徳が積み重なったとしたら、その家の繁栄ぶりは想像を絶するほどでしょう。
 こうした前例があることをよく考えて、孝行しているのに今恵まれないのは、生まれつきの福分が少ないためであり、自分が蒔く種は子孫に実りをもたらすと信じて、しっかりと孝行につとめましょう。


[ メモ ]

 【定庄を沢の中へ隠して】
 沢には山間の谷川という意味もありますが、ここでは湿地のことらしいです。原文では「沢の中に捨てる」となっていて、盗賊に襲われているとはいえ、すごい状況です。

 【定庄の父母までもが官位を】
 この官位は名誉をあらわすだけのものでしょう。だからすでに亡くなった父親にも与えられました。


公開日 2010.11.16

鑑草のトップページへ

HOME