鑑草 中江藤樹

第四巻
教子の報い
第三話 二程子の母 

(現代語訳:青山明史)


 の時代に二人の程子(ていし)という学者がいて、二程子と呼ばれていました。二人は兄弟で、兄は明道(みょうどう)、弟は伊川(いせん)という名で非常に高名な儒教の学者です。
 この二程子の母である候氏(こうし)は、とても孝順の徳が高いので有名でした。そのため夫の大中公(たいちゅうこう)は、当時としてはめずらしく妻に対して礼儀をつくして敬っていましたが、候氏はますますへりくだって、夫を立てていました。小さな事でも必ず大中公に許しを得て、自分勝手にすることはありませんでした。
 家の中を治めるのも礼儀に則り厳しくせず、女中や妾にも優しくして、たとえ悪い事をした者がいても鞭(むち)でたたいて罰することをいやがりました。子供たちがちょっとした事で使用人を怒って罰を与えていたら、「運命の差によって貴い身分、卑しい身分という違いはあっても、みんな一気同体の人なのですから、理不尽に責めることはいけません。悪気のない失敗は誰でもある事ですから、寛大に許すようにしなさい」と深く戒めるのでした。
 このような候氏の徳によって、家中の皆が仲良くなり、いつでも春風が吹いているような雰囲気になりました。子や孫へのしつけは、まったく道理に合っていて、子供たちが少しでも間違った事をすれば必ず戒めました。もし大きな過ちがあれば、夫の大中公へ相談して、きつく戒め、悪い事をやめるまで許しませんでした。
 候氏は常々人に言っていました。
「子供の出来が悪くなるのは、必ず母親が目先の愛に溺れて、子供のあやまちを戒めることをせず、あまつさえ夫にもそれを隠して知らせないのが原因です。」
 このようなしつけにより、明道、伊川の兄弟は、幼い頃から、着る物や食べる物に全く好き嫌いを言わず、どんな事でもよくできました。父の大中公は非常に賢い人でしたから、周子という優れた学者がいるのを知ると、明道、伊川の二人を入門させて心学を習わせました。二人は父の言いつけ通り、周子のもとに学んで、ついに大学者となって、道学の祖となり、その弟子の中からも多くの名高い学者が出ました。その功により伯爵の位を与えられ、死後には孔子廟に祀られました。両親もいつまでも供養を受け、後世にいたるまで人々は程母の教えを称賛して、天下の人々の手本とされたのです。


(評釈 中江藤樹)
 二程子は生まれつき才能が優れていたとはいえ、幼少の時に徳性を育てる母の教えがなく、成人後に父が道徳の先生を選んで入門させなかったら、その成功は難しかったでしょう。
 このように、目先の愛に溺れず子のあやまちを見逃さない教え、着る物や食べ物の好き嫌いをつくらない教え、道徳の先生につかせて明徳を明らかにする教えのどれもが素晴らしい教えであり、親なら見習うべきところです。中でも特に心学の教えが肝心でしょう。父の大中公が実用的な学問でなく道徳の先生を選んだのは普通の人から見たら愚かなことのように見えるかもしれませんが、結果的には、実学の教育を受けるよりもずっと富み栄えることになったのです。この事をよく考えてみるべきでしょう。
 世間の母親の中には、夫の短所や悪い所をわが子に話して聞かせて喜ぶ者がいます。これはまさにわが子に親不孝を教えているのです。なぜなら親不孝というのは必ず親のよくない所を見る事から始まるのです。程母のように夫にへりくだってよく従い、小さな事でも夫に相談する事は、子に孝行を教える根本です。母親なら誰でも心得ておくべき事です。


[ メモ ]

 【二程子】
  程(ていこう)、程頤(ていい)の兄弟。二程子が開祖となった道学は、宋明理学(そうみんりがく)の中で重要なものです。

 【大中公】
 程キョウ(王偏に向)。北宋、洛陽の役人・学者です。

 


公開日 2011.3.2

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