鑑草 中江藤樹

第四巻
教子の報い


(現代語訳:青山明史)


 教子とは子に正しい人の道を教えて、その子の明徳仏性を明らかにさせる事です。
 子の明徳が明らかであれば、親は生きている間は親孝行という報いを受け、死んだ後には極楽へ行くという幸いを得ます。なぜなら、子の明徳が明らかならば、必ず親孝行に真心があるので、たとえその子の生まれつきの福分が少なくて貧しかったとしても、孝養には心が行き届いていて、親の心は安楽なものです。子の明徳が明らかでなければ、親孝行に真心が伴っていないので、たとえその子の福分が多くて裕福だったとしても、孝養には心が行き届かなくて、親の心は安らかではありません。
 また、子の明徳が明らかならば、親は死後に極楽浄土へ行けるのです。これは「一人出家すれば、九族天に生ず」と言われているからです。出家というのは、髪をそり落とし、黒い僧衣を着ることをいうのではありません。自分の明徳仏性を明らかにして、世間の苦しみを超越することが出家なのです。その子の明徳が隠れたままで、形だけの先祖供養をしているだけならば、親は成仏することはできません。
 こういうわけですから、現世と来世にわたって本当に子の孝養を受けるためには、わが子の明徳を明らかにするより他にないのです。本来、親が子に教育をするのは報いを求めてのことではありませんが、この理をよく理解して、子育ての励みにしてください。

 身分の上下に関わらず、賢くても愚かでも、生きとし生ける人は誰でもわが子を愛するものです。子が可愛ければ、必ずわが子には宝を与えたいと願うものです。そうであっても、多くの人は天下第一の宝があることを知らないので、ただ世間一般の宝を与えることだけを願い、性命の宝を与えたいとは考えません。
 そもそも天下の宝は二つあります。一人一人の心の中に明徳という無償の宝があります。これを性命の宝といい、天下第一の宝なのです。なぜならば、この宝を持ち続けていれば、その人の心は常に楽しく、どんな事でもそのまま心が受け入れて、世間の宝もその人の福分にしたがって自然に集まり、子孫も繁栄して、死んだら必ず極楽へ行きます。現世と来世の安楽が思いのままになるという如意宝珠(にょいほうじゅ)ですから、これを天下第一の宝とします。
 金銀や宝石、国王や貴族の地位を世間の宝といい、これは天下第二の宝です。その理由はこういうことです。もし明徳が明らかな人がこれを得たら大いにその価値を発揮して天下の人々は皆その恵みを受けるでしょう。しかし、もし明徳が隠れたままの人がこれを得たら、その身の苦しみとなり、時には命を失い、国を滅ぼすわざわいの元になります。
 昔、(か)王朝の(けつ)王は国王としてぜいたくな生活をしていました。しかし明徳が明らかでなかったので、武力で人々を押さえつける政治をしていました。その結果、桀王は反乱によって殺されて夏王朝は滅亡しました。これは国王の位という宝を使う人のあやまちであって、この宝のせいではありませんが、もともと世間の宝というものの功徳が劣っているからなのです。
 さらに世間の宝というものは、世間においてはあらゆる事に使えるとしても、世間から解脱するためには役に立ちません。このように、如意宝珠の明徳にはるかに劣っているので、世間の宝は天下第二の宝というのです。
 そして、明徳は一人一人にそなわっているものですから、上は国王から下は庶民まで、賢い人でも愚かな人でも、求めれば得られるのです。世間の宝は運命で福分が定まっていて、誰もが得ることはできません。福分がない人は、一日中胸をこがす思いで東奔西走してみても無駄なことなのです。これは、大金を相続した人がすぐに貧乏になったり、何の財産も相続していない孤児が金持ちになって家を栄えさせたりする例がよくあることからも明らかです。求めれば必ず得られる明徳という宝と、求めても得らるとは限らない世間の宝とを比べてみれば、明徳という天下第一の宝を子に与えることが、子を愛する最高の方法に違いありません。

 子を教育する方法は、幼少の時と元服後(成人後、当時は12〜16歳)ではちがいます。
 幼少の時には、父母、乳母などの心がけを教育の根本とします。
 その子の悪い心を呼びさまして悪い事を真似することがないように注意することが第一です。
 子供っぽいふるまいやちょっとしたいたずらなどは、その子の心にまかせて、無理にやめさせてはいけません。なぜならば、こういった事は成長すれば自然になおるものだからです。
 子への教え方をよく分かっていない人は、幼いうちから大人と同じような振る舞いをさせようとして厳しくしつけるので、子の心は窮屈で緊張を強いられます。そうすると子はひねくれ者になってしまいます。
 また、このような例を見て逆に幼い時はしつける事はよくないと考えて、ただ可愛がるだけで、何でもその子の好きなようにさせる親がいます。子の言葉づかいや振る舞いが下品で無礼になり、心は勝手きままになっても、叱ったりやめさせたりしません。これらはみな間違った子育てです。
 こんなふうにならないように、子供っぽい振る舞いはそのままにしておいてよいですから、心に悪い癖をつけるような事があれば、よく教えて、やめさせてください。その教え方は父母、乳母などが知っておくべき事ですが、常日頃から、冗談で言うような事にもよく気をつけなくてはいけません。世間の人々はこの理をよく分かっていないので、子がわがままで自分勝手な事をした時に利口だとほめて、ますますわがままになるようにします。
 あるいは、何人もの兄弟が一緒にいる時に「その子はうちの子だけど、この子はうちの子じゃない」などとからかって、兄弟同士で争い妬む心を呼び覚まします。
 あるいは、美味しそうな食べ物やきれいな服などがあった時に、「あげようか、やめようか」などとからかって、子の貪欲の心を呼び覚まします。
 あるいは、子が誰かに腹を立てて泣き叫んでいる時に、わが子の味方をして相手を叱ってやろうなどと言ってなだめたりして、子の人を恨む心に報い、人を責め、人と争う心を呼び覚まします。
 あるいは、むやみに子をだましたりして、人をあざむく心を呼び覚まします。
 あるいは、むやみに恐ろしい作り話を聞かせて怖がらせたりして、臆病な心を呼び覚まします。
 このように気付かぬうちに子の悪い心をかきたてて、のちに明徳が隠れてしまうような癖をつける事は非常に多いのです。この理をよく心得て、貪欲の癖、わがままの癖、憎悪の癖、争いの癖、人を見下す癖などがしみつかないように用心第一にしてください。ちょっとした遊びの時でも、父母、祖父母、兄などの年上の人に仕えるやり方を教えて、できるだけ子の謙譲の徳を育(はぐく)むようにしてください。

 成人後の教育には、明徳が明らかな品格の高い人に教師になってもらい、儒教の心学を教えて、ひたすら明徳を明らかにするための工夫を行ってください。さまざまな学問や芸事などは、その子の才能に応じて教えればよいでしょう。
 ある人から質問されました。「儒教、道教、仏教はどれも明徳を明らかにする教えだというのに、子に教えるのは儒教の心学だけというのはなぜですか」
 その答えはこうです。もともとこれらの三教はどれも明徳を明らかにする教えではありますが、道教と仏教の修行方法は日常生活に取り入れるのが難しいところがあります。儒教は普段の生活となじみがよく、取り入れやすいので、儒教の心学をすすめるのです。別に儒教をひいきしているわけではありません。


[ メモ ]

 第四巻は子育て編です。
 元藤樹学会会長の故小出哲夫さんによると、藤樹の子育て論は世界で初めての子供の精神・知能の発達段階を組み込んだ教育心理学であるそうです。子育てに関係ない人も、この序文の「宝には二種類ある」という部分をよく読んで、藤樹の意見が正しいのかどうかじっくり考えてみてはいかがでしょうか。
 ここで悪い子育ての例がいくつもあげられています。この内容と今のテレビ放送の内容(特にバラエティー番組)を比較してみましょう。
 「鑑草」以前の著作である「翁問答」の中にも子育てについて語った部分があります。そこでは胎教にも一言触れています。


 【一人出家すれば、九族天に生ず】
 このフレーズの出典は正確にはわかりませんが、仏教経典に似た言葉があるrしいです。九族とは高祖父母−曽祖父母−祖父母−父母−本人−子−孫−曾孫−玄孫の九代です。

 【桀王】
 原文では桀王と紂王となっていて、この二人は古代中国を代表する暴君として有名らしいです。紂王の話は桀王と似ているし、桀王の故事を元に暴君のイメージが捏造されたという説もあるようなので、ここでは省略しました。

 【儒教の心学】
 ここでいう心学とは陽明学のことを指すようです。
 





公開日 2011.2.10

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