鑑草 中江藤樹

序文

(現代語訳:青山明史)


 つくづくと世の中のいろいろな幸福をくらべてみて、三段階に分けるとすれば、身体は健康で心は楽しく、子孫繁栄するのが最上の幸福です。その次は長生きすることです。最後にくるのが出世して裕福になることです。
 これらの幸福の種は明徳仏性です。この幸福の種をまいて育てる畑は、人々との日常のつきあいの中にあります。明徳仏性をつねに明らかにして、どんな事にも執着せず、怒らず、頑固にならず、不機嫌になることがないようにしましょう。親への孝行に真心をつくし、夫には素直に従い、子どもを正しく育て、夫の兄弟一族にはそれぞれ親切に接して、家の中の使用人には思いやりをもち、乞食や身分の低い人にまでも慈悲をもって恵みを与えることが明徳仏性の修行となるのです。
 この修行に真心があれば、人は必ずそれぞれが生まれ持っている福分(幸運)を得ることは間違いありません。もしあなたがよく善行をおこなえば、それによって必ずあなたの得る福分も増えるのです。
 昔も今も人は誰でも幸福を求めるものです。そうは言っても、幸福への正しい道を見失い、明徳仏性を捨てて、日常の生活以外のところへ幸福を求めたら、一日中胸をこがすような思いをしても、幸福を得ることはできません。それどころか、かえって生まれ持っている福分を失ってしまっているというSのに自分の間違いに気づかないのは、夏の虫が灯火に引き寄せられて焼け死ぬのにも似ています。

 ある人の質問です。
「明徳仏性の修行をしない普通の人の中にも、金持ちになって長生きする人がいるのはなぜですか?」
 それは、その人の生まれ持っている福分が多いためです。福分が多いのは、その人の前世での善行のためか、または先祖の積み重ねた善行のおかげでしょう。
 しかし、そうした生まれつきの福分があって、悪事を行っても何の責めを受けない人がいたとしても、その罪の報いは必ず子孫を不幸にするでしょう。悪い事をしてもその人の一生のうちに報いを受けないほどの福分があるのなら、もし悪事の代わりに善行をすれば、その人の幸福と子孫の繁栄は限りないことでしょう。人の親なら誰でも、自分自身の不幸よりも子孫が不幸になることの方がつらいものです。子孫の幸福を願うのなら、因果応報の理をわきまえて、しっかりと自分を戒めるべきです。

 また、ある人の質問です。
「明徳仏性の修行を正しく行っていても幸せになれない人がいるのはなぜですか?」
 それはその人の生まれ持った福分が少ないためです。または先祖の悪行のために幸福を得られないとしても、必ず子孫には善行の報いがあり、繁栄するものです。いつも善行をしていても幸福になれないほど、福分が少ない人ならば、もし悪いことをしたら、どれほど不幸になるか計りしれません。
 自分自身の幸福よりも子孫の幸福を願うのが世の親の常です。子孫のためを思えば、誰でも明徳仏性の修行に努めるはずですが、必ず善行の報いがあるという理をわかっていないので、明徳仏性の修行をしない人がいるのでしょう。誠意をもって明徳仏性の修行をすれば、身体は健康で心は楽しく、子孫繁栄するという最上の幸福が得られるのです。それに較べたら一代限りの立身出世や財産などというものは幸福と言うべきではありません。

 また、ある人の質問です。
「今時の人々は現世安穏、後生善処と願っているが、明徳仏性の修行にも後生仏果の幸福がありますか?」
 明徳仏性の修行がすなわち後生仏果を得るための修行です。なぜなら、今生も後生も全ては魂の経験することだからです。もし今生に魂がなければ、身体は死体同然であり活動することはありません。後生に魂がなければ、極楽や地獄へ行く者はいません。肉体には生死がありますが、魂には生死がないので、今生の魂がすなわち後生の魂なのです。
 今生の魂が明徳仏性を明らかにして清らかで安楽であるならば、後生の魂はそのまま極楽にいることになります。今生の魂が三毒(貪欲・怒り・無知)で満ちて、迷い苦しんでいるならば、後生の魂は地獄の責めを受けます。大乗仏教の教えで、
「慈悲の心は即ち観音菩薩である」
「貪欲とはすなわち地獄である」
などと言うのは、この理を説いているのです。
 ところが世の中の人々は小乗仏教の教えを誤解して、現世の御利益と後生の幸福を別のものだと思い、仏道修行の正しい道を見失っています。明徳仏性のの修行を捨てて、他の方法で成仏を求めるのは、木の上に魚を探すようなものです。明徳仏性の修行に努めれば、願わなくても自然に極楽浄土に至ります。もし明徳仏性の修行をしないで、三毒を心に持ったまま、ただ形式だけの仏道修行だけをするのならば、いくら成仏を願っても必ず地獄に落ちます。仏教の真の教えに背いているからです。
 昔、梁王朝の武帝が達磨大師 にたずねました。
「私は皇帝の位について以来、寺を建て、経典の写しを作らせ、僧侶を増やしたことは数えきれないほどである。私にはどれくらいの善い報いがあるだろうか?」
 達磨大師は答えた。
「そのような事はただの人の営みに過ぎず、善い報いは少しもないでしょう。ただ浄知妙円の修行だけが、この上ないほどの善い報いをもたらすのです。」
 武帝はこうした事に天下の財産を浪費し、多くの民衆を苦しめて、地獄の業を積んでいるのに、善い報いを求めていました。達磨大師はその迷いをあわれんで、親切に教えを説いたのですが、武帝は自分の誤りに気づくことはありませんでした。ますます寺院の建築などに熱中して民衆を苦しめたのです。その結果、天下は大いに乱れて、ついに反乱が起こりました。そして武帝は反乱軍に捕まり、食事もろくに与えられなかったので餓死してしまったのです。現在の行いの結果から判断すれば、武帝の後生は地獄だと思われます。まったく哀れなことです。
 前の車がひっくり返ったら、その後を行く車は用心しなくてはならないように、武帝の前例を戒めとして、仏道修行する人はよくよく用心するべきです。


[ メモ ]
 
 【明徳仏性】

 明徳は儒教の用語で、仏性は仏教の用語ですが、ここでは同じものをあらわしています。全ての人に生まれつき備わっている良心のことです。「明徳仏性を明らかにする」とは、本来持っている良心を行動としてあらわすということでしょう。
 中江藤樹は儒教の中でも特に陽明学に傾倒しましたが、特定の教えにこだわらず仏教、道教、神道なども受け入れています。
 「鑑草」の数年前に書かれた「翁問答」では、仏教を儒教より劣ったものとして厳しく批判しました。しかしその後仏教への理解が深まったためか、「鑑草」では仏教思想の影響が強くなっています。仏教の因果応報論が教訓書に適しているということもあるのでしょう。「鑑草」は仏道修行のすすめではありません。

 
 【後生善処、後生仏果】

 後生善処とは死後、極楽浄土へ行くことです。仏果とは仏道修行の結果、成仏することですが、ここでは死んだ後に極楽へ行くことを指しているようですから、この二つは同じ意味と思って差し支えありません。
 「人々は小乗仏教の教えを誤解して〜」のくだりは、たくさんお布施をすればそれだけ多くのご利益があるという考えを批判しています。
 

 【三毒】

 仏教における人間の三大煩悩。貪・瞋・癡(とん・じん・ち)の三つで、貪は必要以上に欲張ること、瞋は怒ること、癡は真理を知らない愚かさのことです。



公開日 2010.11.7

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